昭和46年03月06日 朝の御理解



 御理解 第7節
 「天地金乃神は昔からある神ぞ。途中からできた神でなし。天地ははやることなし。はやることなければ終りもなし。天地日月の心になること肝要なり。信心せんでもおかげはやってある。」

 天地は流行る事なし。天地は何時も変わらない。不変なのですね。しかも天地悠久の昔から天地の親神様は途中から出来た神様じゃない。その天地の働きはやらことのない働き、そういう働きを教祖の神様が改めてお受けになられるようになり。その天地の親神様からお前の様に実意丁寧神信心致して居る氏子が世間にはなんぼうも難儀な氏子があり。取次ぎたすけてやってくれよという御依頼を受けられた、神頼みを受けられた。
 その神様の願いというのは、どう言う様な内容を持っておるのかというと、信心はせんでもおかげはやってある、金光教という教団が誕生するから、神様のおかげを受けられるようになったかというとそうでなくて、もう天地悠久の昔から天地の御恩恵というものはお互いが浴して来たのである。その天地の御恩恵に浴して居ることを、浴して居ることとして悟らせて貰い、分からせて貰い、そこから神恩報謝の生活が出来る。
 天地の御恩恵をそこに感じてそれに対し奉る、応える生き方、その生き方を日月の心になるとこう仰っておられる。「天地日月の心になること肝要なり」と。それを教祖は実意丁寧神信心と、いわば天地日月程間違いの無い狂いの無い、実意この上もないいわば働き、その働きそのものが、いわば真である。そこでお道では、真で成就せぬことは無いとか、実意丁寧になれとか言われる訳なのです。天地は不変のもの。その働きそのものも同じ事、その働きを私共は受けて来た。
 それを受けて来て居ると自覚する。天地の御恩恵無しには生きて行かれないことが分かる。そこで神様に願うとか、縋るとか任せるとかと言う事になってくる。しかもそれは天地日月の心をもってである。いわゆる実意の限りを尽くさせて頂いて、おかげをいわゆるおかげと感じさせて貰う、そこから神恩報謝、いわゆる有難い、勿体ないの生活が出来るようになる。と教えておられる、とこう思うですね。
 そこでその日月の心になるというまぁ結論だけいえば、実意な心になると言う事というところがいろいろと検討されなければならんという。果してお互いの行き方が流行ることの無い天地をバックにして行く生き方。天地の親神様という神様を私共がバックに持つと言う事の力強さ、心強さそこのところを分かって行く。そこをはっきり分かって行く為に日月の心とこういう実意丁寧な心に依って、精進して行くことに依ってそれがいよいよはっきりして來る。
 例えば、ここでもそうですけれども、ここにまぁこじんまりとした石庭がありますね。もしここの石庭が後の方の黒と白との一つのコントラストそういう見事な配色というかバックと云うかそれがあるからここに石庭が生きておるのです。これがどうでしょうか。この通りのものがそこにすとっとあったんでは石塔が立っとるごたる。ここは普通でいう配石の仕方が違う。これは、私のまぁ提案で天地書き附けを石の配り方に配慮しましたね。天地書き附けをこの庭に入れてくれと云いました。珍な注文ですよね。
 生神金光大神天地金乃神、一心に願え、おかげは和賀心にありと、いうですからそれがあのいわゆるここで天地巌というとりますね。だからこちらに在るのが生神金光大神、その次大きなのが天地巌(岩)天地乃親神様、そしてその横に大きなのがここでの取次者の私。そして諸々の難儀な氏子が配石して在る訳なんです。ですから勿論ここは見る庭ではありませんし、私が毎朝ここに三時半に出て来て拝む処なんです。
 天地を遥拝するところ。ですから別に見た目とか景色とかという必要はないのだけれども、やはり一つの感覚と言うものをお互い持っておりますから、それはいきなりこずんであるよりも、やはりそういう風にして在るのが、見た目にも素晴らしく感じる様に在らなければならん。その石の組み形そのことには素晴らしいとは思いませんけど、ここの場合はこのバックが素晴らしい。あのバックも私の提案で古屋さんにお願いしたんです。大体あの辺から切れるようになっとった。
 向こうの庭からこっちの方へ上がって来られる様になっとった。あの長い廊下をそんな事したらこちらの造って貰う庭が死んで仕舞う。バックがと言う事であそこは白と黒で壁にね、柱は濃い褐色にそして壁を白にする事にさせて頂いた。いわゆるバックが良いからこの石庭が生きてる。それの一番完全なのが京都の竜安寺ですね。京都の竜安寺に有名な石庭があります。あそこだってあの借景が、借景とは借りて來る景と書きます。後に欝蒼とした杉の木立がずうっと立って居る。
 その前に見事なナマコ壁と云うのですか、あの古い光沢のある長い長い壁があって初めてあの石庭が生きておる。と言われております。と同時にあちらのは配石も又素晴らしい。ですからここでは配石、いわゆる心配りと言う事です。配石とは心を配る。石と言う事は意志即ち心。配はくばる心配りが先ず出来なければいかん。それをここでは日月の心とこういうのである。心配り。神様に対する心配り、人に対する心配り、いわゆる行き届いたと言う事なんです。
 その行き届いたこころ配りのうえにバックが素晴らしい、天地金乃神様という天地がバックです。もうこんなに心強いことはないです。天地が何時も私の味方だというのですから、度胸も出来ますね。天地がバック。そこでですそれ程しの事が分からせて頂くのであるから、ならどういう生き方になるかというと、実意を貫かせて頂くと同時に、自分自身の人間の小さい知恵とか力をもってこの世を渡ろうと言うのではなくて、いうならば自ら生きようとしない行き方、そういう生き方にならせられなければいかん。
 自ら生きようとしない生き方というのは、昨日頂いたですけどね。昨日は壮年部会。皆さん一人一人の素晴らしい体験発表やら、最近強く感じておる事等を発表されました中に、私お話させて頂いたんですけれどもね。もう金光様の御信心の根本になる所はね、ここのところまで分からせて頂く事だと、自ら生きようとしない生き方、自分が生き様としない生き方。これが身に付く事なんだ。それを自分で生き様と、自分で食べ様とそこに天地との離反というか、天地乃働きに添わない心に添わない事になるのです。
 それを我情我欲というのです。私共の三番目の娘、直子が今年高校を卒業させて頂きましたから引き続いて学院に入る。自分が発心して学院に行こうと言うた訳でもなからなければ、親の私がもう学院に行きなさいというた訳でもない。それこそ何とはなしにである。今年高校を卒業されるのであるから、当然直子ちゃんはこんだ学院に入られるだろうと皆が云っておる内にちゃんと入らんならんのだと言う事になって仕舞った。
 それで或意味で相当抵抗を感じたらしい。自分に承諾もなしに行くことに決めて仕舞うてからと云う様なことを云いよった。誰も私が決めた訳じゃないです。いわゆる自然がそういう働きがそげんして仕舞った。私も言わなければ家内も言わない。何とはなしにいうならば神様がそういう自覚を促しておられた感じ。ですからいや行かんとは言わんもんですから、手続きをされてまあ総務の高橋さんが万事取り仕切っておられますから、全部手続きを取っ手仕舞われた。
 そこでいよいよ学院に行かなければならんと腹が出来てきた。そういういわば抵抗もあるものですから、だから何か割り切れない気持ちとでも申しましょうか。まあこれは親として学院に行くならそげな事ではいけない、もちっと勉強せにゃ、もっと信心修行もしとかにゃいくまいが、まあ何か知らんけども朝はいつまでも寝とる。何かこう言うなら、ふてくされた様な感じを感じよりました。
 まぁそれでも神様にお願いさして貰いよりましたら、高校の卒業式のあったその日から、朝は御祈念にも出て参りますし、勝手の方はもしいしい云うてから家内の手伝いを致しますし何も言う事ない。しかもそれから現在断食修行さして頂いております。学院に行く前に少し修行させて頂こうと言って思い立っているというけれど、上野先生が二階に上がらせて頂いたら、直子が姉ちゃまここ一日、二日続けてお夢を頂くのが、もう大変なおご馳走がいっぱいあって、それをどんどん食べさせて頂いているお夢を頂く。
 はっと断食中に食べてよかろうかと思って我に返る様なことが何日か続いた。と言うたそうですから、上野先生がここにお届けに見えました。どう言う事であろう。そこで私は御神米を下げさせて頂いてお取次させて頂いたら、今申します、自ら生き様としない生き方と頂いた。自分で食べようとしない、いわゆる断食をしている。食べまいとすれば食べさせ様とする働きがある。夢の中にでも食べさせてやろうとする働きがある。夢の中にでも食べる楽しみを美味しさを感じさせよんなさる働きがある。
 素晴らしいことである。そこから成程自ら生き様としない生き方、如何にもそれは消極的な様ですけれども、この様な積極的な信心があろうか。私はそう思う。もし神様が与えられ無かったら、いわばかつれ死にするかも知れん。と言う様な超積極的な精神がなからなければここんところは分からない。自分の我情自分の我情でああもしたい、こうもしたい、それを神様から少しばかり手伝って貰ってからお願いすると言った時代から、本気で神様を中心にした生き方、そこにはです。
 自分の知恵や力ではどうにも出来ないことを悟らせて貰う。そこから神様にお任せした生活が出来る。自ら生き様としない、しかもそういう生き方がある。その生き方こそが金光大神が教えられた我情我欲を離れて真の大道を開き、みよ吾が身は神徳の中に生かされてあることを悟らせて頂ける分からせて頂ける、天地開びゃく以来天地の御恩恵を受けておる人間氏子がです、それをそれと感じ取る事が出来なかった。そこにですいわゆる、神様任せの信心生活が又はそれに実意丁寧神信心がです。
 吾が身は神徳の中に生かされて或と言う事の尊さ有難さを実感させて頂けれる生き方がある。そこに私共の本当の生活、生き方を求めて行くというのが私共金光様信心させて頂く者の生き方でなくてはならん。しかも成程天地がバックだなといよいよ実感させて頂くことの為に天地は流行る事はないと仰せられる。天地は不変のもの。同じ力、同じ働きをもって私共の上におかげを下さる。流行ることが無い。それをおかげといよいよキャッチさせて頂くその心が日月の心、実意丁寧神信心。
 そこで自ら生き様としない生き方という、腕挫ぬいてじっとしとこうでなくて、その生き方の内容というものは神様に任せ切った生き方。言うならそこのところの働きを働きたらしめる為に、私共がその神様の心を心としての生き方、言うならば日月の心での生き方。云うならば実意丁寧な生き方。
 ならその実意丁寧な生き方をすると言う事に、どういう結果が生まれて來るかと云うとね、昨日大和さんが壮年会で発表しとられました、この頃から謝恩祭があのように盛大にあちらでは仕えられました。さた仕え終って分からせて頂いたことは家内と二人で話とります、あれも足らんじゃった、これも相済まぬことであったと分からせて頂いたら本当に相済まぬという。もう本当に俺達の生き方が実意を欠いどるもんね。
 というてなかったらです、本気でその実意を焦点にしての行方がね一生懸命になって来たとこういうのである。そして実意とはこういうものかと体験しておられる事はですね本気ですべてのことにです、その行き方を求めておられたら、最近若返る感じを頂ます。私はそれを聞いて素晴らしいと思うた。心が弾んでくる。全ての事をおろそかにしない、いい加減にしないその一言一言をですこうすることが実意だと、それを行じさせて頂いて、人間の事ですから完璧と言う事は出来ないにしましても。
 そう心がやらせて頂く様になりましたら最近若返る心が生まれて來る。心の中が素晴らしいことだと私は思うた。成程信心していきたくば長生きせよと仰せられるが、只信心するとは金光様の御信心では、実意丁寧神信心なんです。そこに反省がある。そこんところを例えて申しますとです、全ての例えば事を大事にする様にとだけでなくて、全ての事柄、ことの事態というものを神様の心を中心にした考え方に成って來る。分かっておる様でそれが分からんことがある。
 まあそれも発表の中にありましたが、総代さんの久富さんが発表しとられました。最近一番すそになられます娘さんに結婚話が持ち上がっておる。奥さんの里の弟さんが媒酌人です。良い話だから御神意を伺われたら良かろうと言う事であった。所がその見合いをされるのが三日の日になった。三日の日はご承知のように善導寺の報徳祭がございます。丁度その日が一緒です。私はまあ当然他の方と違いますから、いつも私に付いて色々御用なさいますから、大変私が他の方では出来ない不便なものを感ずるですね。
 ですから当然行ってくださる、来てくださるものと思っておったところが、そんな風だから、見合いの方に父親も出てくれ、と言う事だったから行くと言う事であった。それだから私は、あらっと思いました。その時だから、その時言えば久富さんのことですからすぐ分かられるけれども、ここで言うて分からせたんでは、もうおかげにはつながらないと思うた。もう一本勝負ですから。私が言うて気が付いてからでは、それはもう駄目です。これは自分自身のものなんです。
 その事を昨日あさの御祈念の後に奥さんもそれに気付かれたんでしょう。あの日の事がもう心に引っかっかって引っかって引っかってお父さんをあちらに連れて行ったことが引っかっかって本当にお詫びをして下さいとお届けがあったが、やはり繁雄さんもそのことは言われる、発表される。本当に見事にひごろ一本勝負と言われるのに見事に失敗しましたと。それもね、それからと云うものはあの様にお願いして、あの様にスムーズに行っておったのがぴしゃっと反対になって来た。
 タイミンヅガあらっ、あらっと言う様に、タイミングが狂うてきた。そこで夫婦の方が気付かれた訳でしょうね。これは一寸お父さんおかしいですよと言う事でしょう。奥さんが昨日そのお届けをされました。その事に就いてお詫びして下さいと言う事であった。繁雄さんも昨日そのことを発表しとられて、いわば私の失敗談として、あの様に一本勝負一本勝負といっとるのに、一本勝負に何故あの時にです、3日は出来んぞと何故あの時に言わなかっただろうか。
 いや3日にした所でです、二時間か三時間かずれて夕方にでもして貰ったら一つも差し支える言が無かったのに、同じお祭りの時間と言わなかった自分が悔やまれると言う事である。そしたら早速タイミングが狂うてきておるその幾日間の間のことをです、昨日発表しとられました。ですから人間ですからそういう失敗もあった良いのですけれども、そういう失敗を当り前の事としないで、という行き方が実意の行き方です。失敗が一本勝負で負けを取ったけれども、この次は一本勝負のその事に負けてはならない。
 ここん処を実意丁寧で受けて行かねばならない、そういう行き方なんです。一辺失敗したからもうお前には罪を与えるぞとそんな神様じゃない。そこを分からせて下さる為のお気付なのです。如何に日月の心になれよ、実意丁寧神信心になれよ、何時も神様中心にした生き方になれよと。娘の縁談の事に付いては願いに願い続けているではないか。その願い続けておることが成就しようかという、いわば見合いの事が神様の事とそのことを一緒に絡んだら、もう神様の事は放っておいて。
 自分の考えの方に動いておる自分のことが、実意を欠いだと悟られた。私は日月の心になって信心すると言う事はそう言う事だと。失敗しちゃならんと言う事じゃない。失敗したら失敗したことに気付かれて、詫びていかれる信心になったら良いのだ。だがいつもかつも失敗して良いというものじゃない。そういう生き方なんだ。そういう生き方を身に付けて行く。そこから成程神様のおかげを頂かなければ、出来ることではないと言う事になって來るから、自分からしよう。
 自分から成そうと言う様な、いわば横着な考えが段々無くなってきて、神様任せの、いわば成行きそのものの中に、天地の働きを一心に受けさせての生活。いわゆる神徳の中に生かされてある生活、そういう生活を私しゃ天地がバックだと言う事になると思う。心強い力強い、自分が日頃実意丁寧を欠いでおって、いや私は金光様を信心しよるけん、天地の親神様がバックだからって、幾ら言うたってバックの方が離れて行く。自分が離して行く訳ですから。
 そこんところを私共が実意丁寧神信心を私なりに一生懸命勤めさせて頂く内にです、成程天地がバックだなというおかげが頂かれる、そこに日月の心という、いうなら配石ですね、こころ配りここんところを一生懸命研究する。そこから結果においては大和さんじゃないけれど、生き生きとした心が湧いて來る。とにかく生き生きとした、若返った心が致しますと云っておられる、そういう働きをです私共が表して行くこと。そこで初めて成程天地乃親神様は、信心はせんでもおかげはやってあると仰せられる。
 そのおかげを信心に依らなければおかげと感ずることが出来ないのである。分かるだけなら分かるか知れん。説明を受けただけで、けれども成程天地がバックだな、天地乃親神様の懐の中に在るんだなとの実感は天地自然の働きと云うものを絶対のもの。絶対のものをバックをバックたらしむる為に日月の心と言うものが私共に要求される訳であります。その日月の心を教祖金光大神は、実意丁寧神信心と教えられた。
 実意丁寧を欠いではならぬ。実意丁寧をそこんところを良い加減にしよるとです。神様が何時も私のバックだからと言う様な確信がね、薄いものになって仕舞う。私共がそこんところの信心を頂いて行く限り自分の心の中に天地がバックと言う様に実感が頂けてくる生活。それを安心の生活という。その安心の生活を求めて行く。その為には先ず一つ云うならば、断食の一つもさして貰うと言った様な修行。
 発心させて貰う修行なんです。本気で実意になろうという精神を作らなければ、その姿勢を作らなければ行けません。そこから自分で食べようとするのではなくて。食べさせねばおかんと言う働きを感ずる。自ら生きようとしない生き方。そういう素晴らしいいわば生き方を出来れる。ゆだね任せた生き方が出来れる。焦ることもなからなければというて、悠長に流れる事もない。油断なく実意、言うならば日月の心を追求させて頂ながら信心生活をさせて頂くと言う言。自ら生きようとしない生き方。
 その内容というものを今日は聞いて頂いた様に思います。只すがりもなければ願いもない、修行もない。それで例えば、自ら生きようとしない等と言う事は横着になりましょう。私共の思いの限り、心配りの限りを尽くさせて頂いてそして後に自ら生きようとしない生き方。そこには生かさなければおかん、幸せにせにゃおかんという働きが全ての幸せに必要な働きというものを私共の身の上に家の上に社会の上に表して行けれるおかげがあると思うのであります。
   どうぞ。